株式会社ほつまは、『人の繋がり』を作りたいと願い、設立した会社です。
私は1961年(昭和36年)に広島県福山市に生まれました。
その頃、日本は高度経済成長期の真只中であり、本格的に経済が加速し始めた頃でした。1964年に東京オリンピック、1970年には大阪万博が開催され大成功を収めます。1968年にはGNPが世界第二位となり、日本は驚異的な経済成長を遂げていきます。地元福山市にも1965年に日本鋼管(現JFEエンジニアリング㈱)福山製鉄所が発足し、町が大変容してしまいました。
私が6歳のときまでは、地元の芦田川では泳ぐことができましたし、魚もハヤやフナ、コイなどが一杯いました。砂地に足を置くだけで足の周りには大きな蜆が砂の中から出てきて採り放題でした。芦田川沖の海の干潟にはアサリ、赤貝、大貝やトリ貝などの貝類も沢山おり、車えびも鋤のような道具で砂地を引くと、飛び跳ねて出てきたところを手で捕まえていました。漁業者は海苔の養殖もしており、磯の香りの漂う美味しい海苔をあぶってはご飯にそれを巻き、ほおばって食べていたものです。
ところが、7歳になったとき(1968年)芦田川は遊泳禁止となり、9歳頃には美味しかった魚介類は漁業者の廃業とともに消えてしまいました。さらに11歳の時にはオキシダント注意報とかで運動場で遊んではいけない日まで出てきてしまったのです。
その頃、日本は高度経済成長期の真只中であり、本格的に経済が加速し始めた頃でした。1964年に東京オリンピック、1970年には大阪万博が開催され大成功を収めます。1968年にはGNPが世界第二位となり、日本は驚異的な経済成長を遂げていきます。地元福山市にも1965年に日本鋼管(現JFEエンジニアリング㈱)福山製鉄所が発足し、町が大変容してしまいました。
私が6歳のときまでは、地元の芦田川では泳ぐことができましたし、魚もハヤやフナ、コイなどが一杯いました。砂地に足を置くだけで足の周りには大きな蜆が砂の中から出てきて採り放題でした。芦田川沖の海の干潟にはアサリ、赤貝、大貝やトリ貝などの貝類も沢山おり、車えびも鋤のような道具で砂地を引くと、飛び跳ねて出てきたところを手で捕まえていました。漁業者は海苔の養殖もしており、磯の香りの漂う美味しい海苔をあぶってはご飯にそれを巻き、ほおばって食べていたものです。
ところが、7歳になったとき(1968年)芦田川は遊泳禁止となり、9歳頃には美味しかった魚介類は漁業者の廃業とともに消えてしまいました。さらに11歳の時にはオキシダント注意報とかで運動場で遊んではいけない日まで出てきてしまったのです。
大人達が豊かな日本を目指し走り続けたその足元で、私達子供はいつのまにか自然から遠ざけられ、そして気がつけば幼き日に味わったあの豊かな自然は、私の心の中にだけ残っている思い出となってしまったのです。
現在、瀬戸内海沿岸で自然のまま残っている海岸線は40%だそうです。しかし、その様な海岸線を車で走ると、それはそれは本当に美しく、私は思わず涙ぐんでしまいます。このホームページの写真は私が撮影したものですが、幼き日に目にした美しい自然を思い出させてくれる岡山県備中エリアの風景です。
私のこの様な心情は、個人的な郷愁や懐古趣味なのでしょうか。
私にはその様には思えません。
私達人間の心の中に存在する願いであり、私たち自身の在りようを教えてくれる生命の聲だと思えてくるのです。
株式会社ほつまは、自然を心から大切に思い、人の心を大事に扱い、私達がお互いに助け合い、支え合っていくことの出来る『人の繋がり』を作りたいと願い、設立した会社です。
私達の関わることの出来る人垣は、とても小さなものだと思いますが、私達を優しく包んでくれている自然の姿をお手本に、その人垣を美しいものにしていきたいと願っています。